裁判の話から見える、政治とシティズンシップ教育の話

2019年3月30日


「それでもボクはやってない」という映画の最後に、次のようなセリフがあります。

裁判は真実を明らかにする場所ではない。裁判は、被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められた証拠で、とりあえず判断する場所に過ぎないのだ。そして僕は、とりあえず有罪になった。それが裁判所の判断だ。(映画『それでもボクはやってない』より)

このセリフを聞いたとき、「ひょっとして政治や選挙も同じようなことが言えるんじゃないか」と思いました。

というのも、裁判が「集められた証拠で、とりあえず判断する場所に過ぎない」のと同じように、政治や選挙もまた、「市民が集めた情報で、とりあえず判断する機会に過ぎない」からです。


一方、「法」や「条例」を基に判断する裁判とは違い、政治は「個人の考え」を基に判断することになります。つまり、判断の「柱」のある裁判とは異なり、政治は「自らの軸」が大切になってきます。

その時に軸となるのは、個人の市民や主権者としての「資質」や「能力」であり、「美徳」となってきます。

こういった軸は、いろんな人と議論をしたり、過去の価値観を知ったり、いろんな文化に触れたりすることで育まれるものだと思います。

そして、本来そういった社会における「自らの軸」をシンカさせることが、シティズンシップ教育や主権者教育だと、個人的には思っています。


政治に関する活動については、まだまだ理解が不足している感は否めません。

しかし、実際の社会に触れ、その中で自ら考え、判断し、行動していくことは、社会における「自らの軸」を育み、社会において自らを肯定できる力を育むものだと考えています。

そういった視点で「シティズンシップ(主権者意識)を育む」教育を注目していただければいいなと思っています。