「つまらない授業をする先生がいけない」という人は、そもそも現場のことがわかっていない。

こんばんは!越智です。 

どうも引っかかることがあったので、文章にしてみようと思います。

この活動をしていると、「オチセンの授業はためになった。」「面白かった。」「他の授業と比べて格段に良かった。」という感想をいただくことがあります。

それ自体は素直にうれしいです。

ただ、「他の授業と比べて格段に良かった」=「他の先生はつまらない」というのは、普段一生懸命教育現場で活躍されている先生にとても失礼です。

しかも、これを生徒ではなく「教育を変えたい」と思っている人が言っているのであれば、それはもう教育に関わる資格がないほど、迷惑な発言だと思います。


もちろん、「生徒に興味関心を持たせる工夫が必要だ」というご意見は、ごもっともです。

僕も、学生の頃は正直「つまらない」と感じる授業もありましたし、「授業の工夫すればもっと教育効果が高まる」という思いがあったからこそ、この活動を始めました。

しかし、「生徒につまらない授業を適当に提供しよう」と思っている先生は、少なくとも僕が知っている限りではいません。

3年間(主権者教育で1年お世話になった学校も含めれば4年間)、高校教育の現場に携わっていた立場からすると、「つまらない授業をする」原因は、先生以外にあると考えています。


というのも、学校の先生って本当に仕事が多い。多すぎます。

僕は非常勤講師でしたので、教材研究に専念できましたが、担任や部活の顧問をしていると、正直「いつ休んでるんだろう」と思うくらい仕事をしています。

例を挙げると… 

○担任:進路指導、定期的な保護者面談、生徒間のトラブルや校則違反のチェック・対処、学校行事…

○部活の顧問:部活動の指導、練習計画や試合のスケジュールの作成、土日は遠征(送迎も含む)…


学校は、まるで個人商店が集中する商店街のようなイメージです。

「仕入れや販売、会計、雇用など自分の商店のことは全て自分でする」上、「商店街の組合にも参加をしている」というイメージです。

最近では「それ学校の仕事か?」と思うような仕事も、時にはせざるを得ない場合があります。


主権者教育を学校に導入しようと思えば、新たに学校現場に負担を押し付けることにつながりかねません。

「政治的中立」というのは、分かりやすいが理解しにくい言葉です。

実際、僕は今回の参院選に向けて、模擬選挙推進ネットワークの協力の下、実際のマニフェストから実際の政党に投票する模擬比例選挙を行いましたが、授業での発言、進行、まとめ、あらゆるところに神経を尖らせました。

これだと、「工夫はしたいが、時間もない中で神経すり減らす授業をつくって何かあったときのリスクを考えれば、教科書教えて模擬投票やらせた方が楽」という声が聞こえてきてもうなずけます。


僕は、主権者教育は定期的に外部が入ってするべきだと考えています。

授業に時々外部が入るという主権者教育のスタイルは、学校の負担軽減以外に教育的にも効果があると考えているからです。

僕も学生時代、外部の人が授業に来てくれたときはワクワクして、いつもより授業を聞いていたのを覚えています。

同時に、逆にいつも外部の先生が来ていたら、やっぱり途中で飽きたと思います。

今振り返れば、これは普段の授業があって始めて成立する、バランスの取れた形の授業スタイルだと思います。

時々生徒の好奇心をくすぐり、よのなかへの興味関心を高めるためにも、外部の人が授業に入るべきではないでしょうか。


一方、もし学校の先生が主権者教育を提供する形を目指すのであれば、まずは現場の状況を変えることからはじめるべきです。

日本は教員免許更新制度がありますが、そもそも先生が定期的に「様々な教育手法を学ぶ」時間的余裕があれば必要のない制度です。

また、家族が多様化している中、生徒それぞれも多様化しています。

例えば、担任・教科担当・部活の顧問というような役割分担を明確にし、現場の負担を少しでも軽減する努力が必要です。

しかしやはり、現場の役割分担を進めるのであれば、外部の人が学校に入ることが必要です。

部活の顧問は地域の方にお願いをする「外部コーチ」を進めるなど、地域と教育現場が協働した教育環境の整備を進めるべきです。


どちらにせよ、地域と教育現場の協働が求められる中で、「つまらない授業をする先生がいけない」という態度で臨むべきではありません。

今ある教育現場の状況を把握し、先生方を尊重し、下から目線のアプローチを行うことで、先生・生徒も含めみんなでより良い教育環境を作っていくのが、「責任ある一主権者を育てる」最初のステップではないでしょうか。